刺激

Hitachi FLASH GUIDE

 最近、ちょっとある分野で触発されています。
 私の場合は創造性という部分が、すっかりもう欠如しきっているので
 なんらかの外的要因がなければ、もはや作品をつくれなくなっています。
 自らのうちにあるものを、じんわりと表現できるアーティストではなく
 エンターテイナーであるとすれば、
 ご覧のとおりパクリ芸──いやいや、オマージュとかコラージュとか
 リスペクトだとか、インスパイアだとか、コピー──といったようなものです。
 事象にふれた時に受ける強い感動が作品制作の意欲となり、それが動機となります。


 じつは最近メガスターを見にいく機会が少なくなっています。
 すでに、メガスターII 4 号機タイタンは完成していて明日 18 日から
 愛知万博愛地球博」のデラ・ファンタジアで公開というところにまできています。
 水戸まで 2 号機ミネルヴァを見に自転車で往復 307 km 走ったくらいなので
 きっとやる気になれば、片道 300 km の旅もできなくはないはずです。
 名古屋まではひたすら国道 1 号線、東海道を爆進していけばいいわけです。
 というか、普通に新幹線にでも乗ってしまえば、それこそ 2 時間程度。
 以前の仕事でも「おい、そこのおまいさん、ちょっと研修してやっから
 あした来いや、名古屋まで」ということになって同行者と一緒に新幹線にのって
 遠足気分ではしゃぎまわり、窓から流れゆく景色を 30 万画素のトイデジカメで
 撮影して面白い絵が撮れたと大騒ぎ。
 パーサーの女性とかるく談笑してはメアドゲットするかのようなことをしてみたり、
 「僕は一度でいいから、新幹線のトイーレでモバイルしてみるのが夢だったんです」
 などと意味不明語を発したりいてみたり、
 三島に停車した際に降りて新幹線の外観写真を撮っていたら乗り遅れそうになったりと、
 てっちゃんでもないのに、大喜びしまくっていたら、
 はじめ親しくしてくれた同行者も、
 あきれて途中から口を利いてくれなくなってしまいました。
 なおも、名古屋についたとたん時間がないというのに、
 わざわざ目的地の反対方面の出口にまでいって、
 駅ビルや周辺の写真を 30 万画素のトイデジカメで撮ってみたりしていたら
 さすがに時間が差し迫ってきて、同行者がやっと口をひらいてくれました。


 「いいかげんに汁!」


 思えばメガスターシリーズの中で一番思い入れのあるのは
 初号機フェニックスで、一番投影をみている回数が多いです。
 五島プラネタリウム跡地や、川崎市青少年科学館といった
 場所柄郷愁さえ感じるような、フェニックスには特別な何かがあります。
 コスモス級なものになってしまうと、なぜかそれが薄れてしまったというか
 例えるなら新海誠さんでいうと、完全自主制作作品ほしのこえは凄いと思っても
 監督作品雲の向こう、約束の場所は新海さん以外のスタッフの見えない存在を
 感じ取ってしまって若干覚め気味になってしまうといったところでしょうか。
 コスモスに関してはフェニックスを凌駕する最先端の投影機で
 その洗練さをみると手作り感みたいなものを、感じ取れないほどになっています。
 フェニックスにおいては Libretto であるとか、CASSIOPEIA A-20 や
 CASSIOPEIA E-500 なのような衝撃がありました。
 しかし、フェニックスからコスモスとなると、革新性がわからないくらいの違いしかったです。
 大平さんの日記によると、すでに恒星数 1,000 万個を実現する技術は可能のようで
 次に開発ロードマップにはいっている 5 号機アルテミスではギガクラスにまで
 奥行き感を再現してくることになると思います。
 はたして、人間の目ではもはや識別のつかないほどの領域を体感した時、
 心にそれはどう写るのでしょうか。


 何か素晴らしいものと出会った時に共鳴する何かがあると
 その素晴らしさを人に伝えたくなり、伝えるための表現は
 その時実現できる最高の方法でおこなおうとします。
 それ自体を知ってもらおうとすることもあれば
 そこから感じた気持ちや新しい概念などをカタチにしようとすることもあります。


 先日、東京都美術館にお世話になっている方に連れられて
 ミシャ展にいってきました。
 アールヌボーの様式美など、いくつか脳裏に焼き付いてしまったものがあり
 絵の世界から離れてしまった今では、ミシャの撮った写真にすごく興味を惹かれたりしました。
 じつはそれ以上に興味をもったのがガイド音声端末。
 日立製「FLASH GUIDE」は、ストレート型の携帯電話を大きくして、
 USB ポートを取り付けたかのようなもので
 画面は小さなモノクロ液晶。
 Bluetooth とか、RFID とかを積んでいるわけはないので
 あらかじめ設定された場所で番号を押すと
 展示されている作品や、描かれるあたっての背景的なことなどを
 聴くことができるので、美術になじみのない人にとっては知識として
 なれている方にとっては再確認ができるしくみになっていました。


 私の表現クラスは 30 万画素の世界。
 リアルな写真なんて、他の人がいくらでも撮れます。
 とはいえ写真は現実を切り取るといっても、やはりそれは現実ではない。
 現実に近いものだけれど、撮影者の表現によるものなんだと
 きょうも、カメラマンたちの撮った写真を眺めながら思ってみています。


 新しい地平線。


 私はそれを探して、走っているのかもしれません。
 たまに、つっ走りすぎだといわれますが。