雲の中

 気がついた時には、もう雲の中だった。
 雨上がりで、ストリートミュージシャンすら見かけない街で
 こんな日に夜景なんか見ても……と思いつつも
 ついつい登ってしまう。
 まあ、莫迦となんとかは高いところに登りたがるという現象が
 実証されたまでのことだ。
 案の定、地上 200 m からの眺めは、レインボーブリッジすら
 薄らとしていて、お台場も目視することが不可能だった。
 そればかりか、晴海トリトンスクェアさえも見えない。
 勝鬨橋はかろうじて確認することができたものの
 聖路加ガーデンは、どこへ行ってしまったというのやら。
 普段であれば、この場所からはビックサイトの逆三角形の会議塔も
 ディズニーランドであがる花火も、房総半島だって見える。
 それが、夜景を見たくてしかたのない
 きょうに限って、なんでこんなまた……。
 時間がたつにつれて、ガスはいっそうの濃さをましていって
 ついには、竹橋も見えなくなり、築地市場も消えてしまった。
 朝日新聞までもが飲み込まれ、目の前は白に染まった。
 こんなことは、はじめてだ。
 これまでも、ほとんど見えない夜景を経験してきたけれど
 きょうのは、そのどれとも違う、かつてこれほどまでに
 まったく見ることのできなかったことはない。
 世界は、もう私に夜景を見ることすら許してはくれないようだ。
 地上におりて、さっきまで自分がいた場所をふりかえってみようとして
 もう一度、愕然となった。
 広場へむかった。
 さっきも誰もいなかった広場、こんな日はもう誰もみつけることはないだろうし
 期待もしていなかった。
 いや、そう書くと嘘になる。
 最期の希望を私は捨てきることができなかった。
 変わってしまったのは、私たちが守ろうととした世界。
 変わっていなかったのは、私たちが変えようとした場所。
 そして、奴だけだ。
 さあ、歌おう。
 この世に生きる喜び、そして悲しみのことを。