アニソンばかり聴いていた

 僕は人より理解力が乏しい。
 物事を真に知覚するまで長い月日、いや年月がかかる。
 事象に出会った時には茫漠とした表面上のことしか認識できない。
 後々になってようやくその裏側にある大切なものに気づくことがある。
 それまで見えなかったものが突然、ふっと見えてくる。
 例えるなら森の中を彷徨って、どこに行っても鬱蒼と茂る木々ばかりを
 見てきたのが、がけっぷちにでも出て視界に空の青と地平線、
 それから眼下には迷いの森の全景が見渡せるようになったような気分
 と、いったところだろうか。
 まあ、実際のところは真実在の姿を見たつもりになっているだけで
 誤解や勘違いは甚だあるものだと思う。
 例えば、歌。
 メロディーがあって、歌詞があって、バックコーラスがあって
 付加的な要素がある。
 曲そのものの美しいメロディーラインに感動させられ
 それがドラマやアニメのシーンにシンクロするような挿入歌であるとか
 クライマックス後の感受性がましている時にでも聴いてしまうとなると
 付加要素による印象と酔いしれるようなメロディーに心が奪われてしまう。
 僕にとって、歌はまず付加要素、次いでメロディーやアレンジ、
 そして最後に歌詞がくる。
 どんな言語の歌詞の曲であっても、例えば最悪な内容の歌詞であっても
 最初に感性がうけいれるのは音そのもののもつ綺麗さ、そしてつむがれる旋律のようだ。
 まあ、要するに僕は莫迦だっていうことを露呈しているだけのことなのだけれど
 もっと続けると、聴いて好きになって、自分も口づさんで歌詞を口から発するようになっても、意味もわからず歌っていることのほうが多い。
 本当に莫迦な話だと思う。
 自ら口にして言葉に出していることの意味がわからないだなんて。
 言葉というものには自らの行為を振り返ってみた時に、あまりにも軽薄な態度で接してきたのではないかと思う。
 誰かが歌詞をよく読めと言っていた。
 よく読めといっても、何度も反復して字面を追えということではなくて
 意味を理解しろということなのに、思慮が浅くて結局字面をおうことばかりしていたのかもしれない。
 第九を一緒に聴いていた人から、曲のことをいろいろ教えてもらったときに
 「この楽器は、テーマに対して賛同を表している」とか「この一節はテーマに否定している部分、こうじゃないかと思う、いや違うっていう葛藤なんだ」というふうに、楽器が発している音自体にも意味があること、その意味を感じ取ると良いと言ってもらった。
 歌詞より先に音が僕にはいってくる、と思っていたけれど音の心地よさにばかり心を打たれていて、その意味というものに気づくことはできたのだろうか。
 もしかしたら言葉では言い表せないことを本能的に感じ取っているのかもしれない。
 音楽評論は感性を言語化するもので、誰でも感じるけど言い表せなかったことを、言葉というピースによってパズルへと当てはめてみることなのかもしれない。
 歌詞のもつ意味、メロディーの意味、音色の意味、すべてを知るためにはいったいどうすればいいんだろう。
 僕は知りたいと思った。
 いまよりもっと理解することができれば、深い部分でつながっていけるかもしれない。
 もっと大切なものになるような気がしてならない。
 子供の頃、僕が耳にする歌のほとんど──いや、もう全部といってしまったほうがいいかもしれない──はアニメソングだった。
 好きなアニメのオープニングやエンディングであるとか、いわゆる主題歌だ。
 あの頃は学校から帰ってきてテレビをつければアニメがやっていて、いつもそれが楽しみだった。
 ふれあいやすかったから、親しみやすかった。
 それしかなかった。
 今は夕方テレビを見るということが難しくて、どんな番組がやっているのか番組表じたいにも目が行かなくなってきた。
 年をとるにつれて活動時間や生活サイクルがかわってきて、アニメよりもドラマをみるようになったり歌番組なんかを見るようになったりして、接する歌のジャンルもかわったりした。
 今はテレビ自体を見ることのほうが少ない。
 歌にふれあう機会というのが限られてきて、駅前で歌っている路上の人たちの声に時々立ち止まるくらいになった。
 歌を記録して再生するために CD や MD を使っていたけれど、脳内記憶と再生ができるのだから、別に実際にかけなくても思い出すことができる。
 きょうもふっと思い出した。
 それが不思議ときょうは、メロディーとしてではなくて歌詞が蘇ってきた。
 歌詞の意味を感じ取った。
 歌をもっと好きになれる気がした。
 そういえば、本当にわかることっていうのは自分がわかるだけでなくて
 誰かに伝えられることだと言われたことがある。
 言葉というものは面白いと思う。
 僕は頭が弱いので、長々と脈略もなく書き散らすだけだけど
 歌詞は断片的な言葉なのに、人はそれを感じることができる。
 錯覚なのかもしれないけれど、自分や何かに当てはめてみて共感を感じたり
 感動を得たり、影響をうけたりと、深く記憶され広く浸透していく。
 歌がなくても生きていけるけど、あればあったでちょっと素敵。
 アニソンばかり聴いていた、あの頃わからなかったことが
 今になってようやく見えはじめただなんて……
 人よりずいぶんと遅くなってしまったけれど
 やっと、何に感動して心を動かされてきたのか
 言葉にできなかったことを、少しずつ言葉にできるようになってきたのかもしれない。
 感動を正しく人に伝えられるようになれたら。
 誰かにわかってもらうことができたなら。
 好きが広がっていく。
 世界は彩られていく。